2014年6月3日火曜日

昇段レポート 藤田博一


極真黒帯への道

二〇一四年五月

                   大阪北摂支部 千里道場 藤田博一

 

 この度は昇段審査の機会を与えてくださった水谷先生、誠にありがとうございました。また励まし・協力してくれた道場の仲間や、これまで空手を続けさせてくれた家族に心からお礼を申し上げます。

 

 私はこの大阪北摂支部ができた二〇〇七年五月七日の第一期生で、今では同期生が由賀さんだけとなりました。入門のキッカケは自宅ポストにチラシが入っており「道着が無料!」とあったのに引かれたこと、スポーツジム通いして身体を鍛えていたので近所で空手ができるところがあればやってみたいと思っていたことでした。それと小学生のころ少し空手をやっていたこともあり空手には興味がありました。「合わなければ辞めればいいか…」と最初は軽い気持ちで始めました。ですが、始めると夢中になってしまい、何があろうと稽古に通い詰めました。楽しく思えましたし、強くなることで自分に自信が持てるようになると思っていました。それから十一か月後の翌年三月に初めての昇級審査が京都支部で行われました。その時に谷口支部長から「ここにいる全員が黒帯になれるわけではありません!」と言われたことは今でも忘れません。その時は真意が分かりませんでしたが、「あまりにも厳しくて(黒帯に)なれないのか…?」と思うだけでした。最初は昇級に興味はなく、ただ強くなりたいと思っていましたが、空手をやっていくうちに黒帯になりたいという思いが膨らんでいきました。そうして稽古に励む日々が続き、ある時自分に異変が起こりました。急に腰が重く痛くなり、家にいる時はグッタリと横になるだけ。その時の自分は歳のせいで腰が弱くなったのだと思い、もっと強化すべく筋トレの負荷や回数を増しエスカレートしていったのです。それから数カ月間、さらに稽古前に痛み止めを服用し稽古に行くようになってしまったのです。悲劇は起こってしまいました!七月のある夜に激痛がはしり、痛くてノタ打ち回るくらい寝れない夜を過ごし、ついには翌朝に立てなくなったのです。救急車で病院に運ばれ、診断結果は椎間板ヘルニア。痛み止めを服用していたことにより、これほどまでの悪化に気付かなかったのです、病院の先生の判断で手術はせず自然治癒で一カ月ほど入院となってしまいました。入院期間中には昇級審査があり、皆に後れを取るのが嫌で愚かにも自分は病院を抜け出して受けに行ってやろうと思っていたのですが、身体はとてもそんな状態ではありませんでした。それから二カ月間は休会し、まずは体を治すことに専念したのです。

 自分が復帰した時、同期の由賀さんは試合に出て快進撃している時でした。最初はなかなか勝てずでしたが、そのうち入賞するようになり、活躍される姿が嬉しくもあり、羨ましくもあり複雑な思いで見ていました。自分も試合に出てみたいと…。意を決して第一回全関西空手道練成大会に出場しました。完治していない中でまだ早いと思ったのですが、自分の抑えられない気持ちを優先させたのです。結果は惨敗。入院生活で筋力・体力・スタミナが極端に落ちてしまったことと、年齢的なこともあり驚くほどスタミナがありませんでした。この時は本当に悔しかったです。それからは元の筋力・体力に戻すべく腰に負担をかけないように地味なトレーニングをしていきました。前みたいに無理をして再発してしまうと、もう二度と空手ができなくなるという不安と怯えを抱えながらでしたので細心の注意を払いました。調子が悪くて稽古に通えなかったり、昔のように身体が治りにくくなっているなどストレスを抱えていく中で、黒帯なんて到底無理ではないかと弱気になったりもしました。それからの自分は気持ち的に本当に弱くなってしまい、色んなことを理由に逃げていた自分が恥ずかしかったです。

 それから月日は流れ、毎朝している腰痛の再発防止体操(マッケンジー体操)の効果もあり、何とか普通の生活が送れるようになりました。稽古でも先生が気にかけてくださり、極力無理をしないように心掛けました。しかし右ふくらはぎ横の痛みは今でもとれません。雨が降る前は腰がズキズキと痛みだします。だから雨が降ることはセンサーのように分かります(おそらく低気圧に反応しているのでしょう。)。空手は腰を使うスポーツですし、傷めて軸がブレたようでバランスは悪くなりました。柔軟性も全くありません。柔軟体操で無理し過ぎると右足の内転筋(ふとももの裏)から出血してしまいます。無理の境が分からず何度も出血させてしまい、今では右足の筋は硬くなり左足とのバランスが違います。加えて自分は二十代の時にスキーで右膝の靭帯を損傷しています。身体はもうガタガタです。さらに四十代を迎えたこともあり、何もやる気が起こらない倦怠感にも悩まされました(三年ほど続いたので辛かったぁ…)。それで弱い自分を追い込むために試合に出たりもしました。それでも何とか空手ができる喜びを感じ、焦らず自分にできるペースでやっていこうと思い直しました。そんな自分も試合に出て何とか入賞できるようになりました。いつしか一級となり、前に思っていたほど早く黒帯になりたいという思いはなくなり、逆にまだまだ黒帯にはなれない、相応しくないと思うようになり、基本稽古でも一つ一つの動作をしっかりと意識するように心掛けました。それで昨年に先生から昇段のお話を頂き、(自分ではまだまだ早いと思いながらも昇段の時期は先生にお任せしていましたので)昇段に向けての練習を始めました。先生に稽古をつけて頂いてみると型はダメ出しばかり、これまでの基本・移動稽古で悪い癖が付いてしまったらしく、なかなか直らず苦労しました。それでも先生は呆れず丁寧に教えてくれました。仕事が忙しく、稽古に行く回数が減り挫折しそうになったことが何回もありましたが、先生や道場の仲間と稽古ができ、稽古後に味わう爽快感、そして何より空手が好きでしたので何とかここまで続けることができました。

 そして入門してから六年十ヶ月後に迎えた昇段審査、十人組手よりも実は型の方が心配でかなり緊張しました。型を終えた時に岩永さんが拍手してくれたのは、照れ臭く恥ずかしかったのですが、本当に嬉しかったです。最後の十人組手、掛け声をかけてくれながら皆が手加減せず思いっ切りブツかってきてくれてすごく嬉しかったです!スタミナがなく酷い無様な組手となりましたが、今まで空手をやってきて本当に良かったと思えた瞬間と言っても過言ではありません。決して一生忘れることはないでしょう。(ですが…畑さんの笑いながら日頃の恨み?を晴らすような思いっ切りの突進はコタえました…) 空手は個人競技のスポーツですが、受審するにあたり自分がここまでこれたのは多くの人達の支えがあったからだと感じました。そして空手に深い理解と励ましで続けさせてくれた家族に心から感謝しています。そういう意味では過去に谷口支部長が言われた「全員が黒帯になれるわけではありません!」というのは、社会人である大人や少年部の子供達もこういった支え無くしては続けることが難しいということも含まれていたのかもしれません。肝心なのは本人のやる気があれば必ず辿り着けます!だから歳をとったからといって諦めず、少しでも空手をやってみたいという方は今からでもできます!健康志向の方でもいいと思います。私はこれからも末永く空手ができるように無理をせず、今の身体と付き合っていきたいと思っています。

 

大阪北摂支部で一から始めた道場生の中では第一号の黒帯となり、大変光栄に思っています。審査内容は決して十分ではなく、まだまだ至らないところが多いですが、これからが新たなスタートと肝に銘じ、極真の黒帯として恥じないように精進していきたいと思っています。

今後ともよろしくお願い致します。押忍!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【悲しいエピソード】

 小学生のころ伝統派空手をやっていました。一応、二級茶帯までいきました。その時の自分は帯の色は、白、茶、黒しかないと思っていました。遠い記憶を辿っていくと…、水色、黄色、緑色と他の色も確かにあったはず。友達が水色や黄色をしていた!何故、自分は茶帯までいって、その他の帯をしていなかったのか?そうです、貧乏だったから帯を買ってもらえなかったのです。審査代に帯代は含まれておらず、合格したら帯を買わなければなかったのです。茶帯に合格した時に、うちの母親が「白帯を染めてあげるわ。コーヒーで染めたらうまく染まるで。お母さんに任しとき!」「えッ、コーヒー?!ほんまに大丈夫なん?」と疑い目で不安げに答えましたが、当時の自分は無知でしたし、母親が自信を持って言うから大丈夫やろうと思って、濃い色の茶帯を期待して楽しみに白帯が染め上るのを待ちました。タライか何かにコーヒーを入れてそこに帯を付け込んでいたと思うのですが、日が経ってもいっこうに帯が染め上りません。ある時、母親がもういいやろと帯を引き上げましたが…

結局、帯は白いTシャツに泥水がついた程度の淡い汚れ色で、とても茶帯と呼べるものではありませんでした。

そんなん(コーヒーで)染まるわけないやん!

染まっても洗えば色落ちるし!!

母親は「まあ、いいやん!これで締めていき。」 「はぁ~?」 

結局、嫌々その帯を締めていきました。ですが、どう見ても茶帯には見えないし、コーヒー臭いし、恥ずかしくて恥ずかしくて泣きそうになりました。帰ってから「新しい茶帯、買ってやー」と懇願したけど、それでも母親は「染め方が悪かったんかなあ?もう一回染めてみるか。」と変なやる気をみせてましたが、自分もいい加減にしてくれと思い半泣きになりながら「こんな帯締めていくん嫌や。もう空手行かへんわ。」と叫びました。さすがに母親も諦めたのか「分かった、分かった。」と新しい茶帯を買ってくれました。このことは夢だったのか、現実だったのか、今でも自分を悩ませます。